前編『宜蘭クレオール』を探して(1)はこちらから
石段を下り、歩いてきた道を引き返す
折角、長い時間をかけて来たので、住民に話を聞いてみたいと思い、ゆっくり座れそうなレストランを探したが小さい部落がゆえに見当たらない
先ほど通った屋台にはたくさんの人がいたが、話を聞けるような状態ではなかった
神社へ向かった道と同じ道を引き返すように歩いて行き、屋台の通りを抜けると、左側には渓谷があり、右側には家々が立ち並んでいるが、そのうちの一つの家の戸口にある格子窓の隙間から数人が酒盛りをしているのが見えた
年齢は60代から70代くらいだろうか、男性が3人テーブルを囲んで座っていた
その家に近づき格子越しに、近くにどこかレストランがないかと尋ねると、一本裏の通りに牛肉麺の店があると教えてくれた
行ってみると、普通の民家だがドアの上に「牛肉麺」と書かれた赤い幕がかかっている
開きっぱなしの門から中を覗いたが、電気もついておらず薄暗い
青年が1人門のところまで出てきてくれたが、みんな運動会に出払っているから今日はやっていないんだ、という
運動会や屋台で大勢が楽しんでいる中に飛び込んで、声をかけるのは少し気が引けた
そんな勇気もなかった
それに、雨も降り続いている
仕方がなく、4時からお会いする予定の寒渓教会に行ってみる
二階建ての建物で一階には事務所(おそらく教会堂もある)、二階にはカフェが併設されていて、一階部分は広い車庫のようになっているため、雨がしのげるようになっている
事務所はガラス戸になっているため、外から中が見えるが電気が消えている
当然だが、不在だった
勝手ながら車庫に入らせていただき、木製のベンチに腰を掛けた
さて、どうしようか
このまま、予定時間の4時までこの場所を借りて作業でもしようか、本でも読もうか、とも思ったが、それにしては時間が長すぎるのに加えて、そもそも今回は何にために遥々ここまで来たのか
駄目で元々、できる限りのことをやってみようと思った
小学校へと向かう道に戻り、酒盛りをしていた方々に再度声をかけてみた
窓の向こうから食い気味に、お店は営業していたかと聞いてくる
首を振ると、あそこで運動会があって、屋台もまだやっているから、あそこで食べたらどうだ、と世話を焼いてくれて、小学校の場所を説明するため道路まで出てきてくれる
私は、実はこの地域の言語に興味があって村に来たこと、そして日本人だと言うことを話し、もしよければ話を聞かせてくれないかと伝えた
少し怪訝な顔で見つめられた
ほんの数秒だが長く感じた
一瞬、怒られるのかなと思ったその時、「いいよ、一緒に酒を飲もう」と快く迎えてくれた
酒盛りに混ぜてもらう
タイヤル族のおじさんの後に続いて門をくぐると、ドアの左側に入ると石造りの小屋があり、中では男性3人、女性1人以下が肉や魚、野菜などの贅沢な料理とビール、高麗酒で酒盛りをしていた
おじさんの奥さんも出たり入ったりしていた
日本からの友達だと紹介してくれる
にぎやかに出迎えてくれて、料理やお酒を勧めてくれた
お言葉に甘えいただいたが、その間にも「kore taberu(これ、食べて)」「yasai(野菜)」など、日本語の単語を使って話しかけてくれる
この家は部落でも数少ない商店だそう
時より買い物に来る人が私が座っている後ろを行き交う
話し始めて一番最初に感じたのは、日本語の単語をよく知っていることだ
私がこれまで約3年間台湾の台中で生活をする中で、日本人に対して親切に、優しく接してくれる人と多く出会った
また、小学校6年生まで国語教育を受けた80代以上の方に会った際は、当時の日本語教育は本当に大きな影響を与えたもので、流暢な日本語を話していた
しかし、この部落で聞く日本語はそれとは少し違った
一緒にテーブルを囲んだうちの一人の男性は、自分は75歳だと言う
恐らく他の方々も同年代ではないかと思うが、年齢から逆算すると、1948年前後の出生であるため、直接、当時の国語教育を受けたとは考えられない
それにしてはよく日本語の単語を知っていることに驚いた
その75歳の男性は、自分は花蓮出身のブヌン族だという
両親が日本語教育を受け家庭内で日本語を聞く機会も多く、ひらがなやカタカナの読み書きは全くできないながら、日本語を聞いたり、話したりすることは多少できると言う
また、この男性のご両親がお酒の場で、日本語の歌をよく口にしていたと言い、今でもはっきり覚えているそうだ
実際に「でんでんむしむし(かたつむり)」や「お酒を一本(一杯?)、互いに飲みましょう(何の歌曲か不明・・・)」など歌って聞かせてくれた
友人たちもつられて一緒に歌いだした
いつから飲み始めているのかわからなかったが、だいぶ酔いが回っている方もいた
彼らは私がいることに気を遣ってか、9割中国語で、時々、原住民語(?)を話し、私に対しては中国語に日本語の単語を織り交ぜながら話をしてくれた
話は変わるが…
タイヤル族の家々では、自分たちで狩猟した猪の下顎骨を吊るしたり、囲炉裏の上の天井に置いたりする慣習があるようで、この宴会が行われている小さな部屋にも壁側に5、6個骨が紐に吊るされていた
そして、そこから身体に関係する言葉が話題にあがった
「耳」という単語は既に知っているようだったが、他にも「目」「鼻」などを指さし
「anta kore nihongo nani hanashi suru?」
(これは日本語で何と言うの。)
日本語では何と言うのか気になるようだったのでいろいろと教えてみる
宜蘭クレオールにおいては、身体名称はタイヤル語が使われることが多いが、「肉」、「目」、「耳」などタイヤル語と日本語が併用される語彙もあるようだ
そもそもクレオールとは三つ以上の異なる言語習慣を持つ人々が接触して生まれた言語変種で、それが複雑化・体系化され、そこで生まれ育った子供たちに母語として継承されることで再構築された言語のことを指す
先行研究によると、同じ宜蘭県で宜蘭クレオールが話されている東岳村では1930年から40年代には宜蘭クレオールを使用していたとの記述がある
同時期(1911年~1917年の間)に教育所で国語教育を行っていた寒渓部落も仮に同様の状態であったと想定すれば、今回話を聞かせてもらった方々は第二世代だろうか?
私が今聞いている言葉たちは果たして宜蘭クレオールなのだろうか?
いろいろな疑問も湧いてくるが、今後、少しづつ明らかになって行くことを願う
これからも定期的に寒渓部落に足を運びながら、当時の資料や宜蘭クレオールに関係する研究論文などの調査も行っていきたい
また、今後は数人の住民に対してインタビューを行い、日治時代から現在に至るまでのかれらの生活、及び現在の言語使用状況と言語意識についてインタビューし、記録に残していこうと思う
『宜蘭クレオール』を探して(2)