「ニホンゴ」継承 PROJECT

日本統治時代に生まれた「宜蘭クレオール」とその話者達の思いを残すための活動記録

『宜蘭クレオール』を探して(1)

台中市から寒渓部落へ

早朝の6時05分台湾中部の台中市を出発
台中高鐵駅から新幹線と電車、バスを乗り継ぎ5時間程かけて台湾北東部にある宜蘭県の寒渓(カンケイ)部落へと向かう
 
始発の新幹線は窓際の座席、人が少ないので隣にかばんを置いて、今日一日の為に色々と考えを巡らせてみる
 
今回は大学院の研究の一環として、そして修士論文執筆も見据え、『宜蘭クレオール(宜蘭克里奥爾)』と呼ばれている現地の言語について、住民の方々と直接会ってお話を伺うために初めて訪問をした
 

『宜蘭クレオール』とは…

台湾の宜蘭県で日本統治時代(以下、日治時代)、寒渓では1914年1月に当時は高砂族と呼ばれた山地部に居住する台湾原住民の為の簡易的な教育機関である蕃童教育所を設立し、警察官として動員された日本人が現地民に向けて日本語教育(当時は国語教育と呼ばれていた)を行った
 
漢族系に対する教育とは異なり、警察官が教師を兼務していた背景には、当時は野蛮だと見なされていた高砂族に対する治安維持という側面も含んでいただろう
 
台湾では、所謂日本語世代と言われる日治時代の国語教育を受けた人々がいる他、当時は『閩南(ビンナン)語』と呼ばれていた台湾語※1 の中にも、『畳』や『ラジオ』、『(車の)ハンドル』等、日本語由来の借用語がいくつか見られる
 
一方、寒渓部落を含む宜蘭県の一部地域では、日本統治時代に台湾原住民タイヤル族とセディック族を共同移住させた管理政策や前述の教育所における日本語教育の結果、言語混合により独自の言語体系を持つ言語(ピジン※2 )が発生し、生活言語として継承されクレオールとして定着と言われている
 
以下、宜蘭クレオール研究に関する参考
国立国語研究所|日本語変種とクレオールの形成過程:
 

 ※1『台湾語』: 台湾では公用語である中国語に加えて、中国の福建省にルーツを持つ台湾語が台湾の南部地域や高齢層を中心に母語として話されている

 ※2『ピジン』: 三つ以上の異なる言語を話す人々が接触し、意思疎通をするために自然形成された言語変種

 

寒渓部落に到着|寒渓國小、そして寒渓神社跡地へ

午後11時半過ぎ、寒渓部落へ到着
宜蘭県の羅東から山間部に向かってバスで40分ほど走ったところにあり、地名の通り渓谷も見える

全長324メートルの寒渓吊橋|主塔にはタイヤル族の伝統『菱形模様』などが鮮やかに描かれている


バスで村へ向かう途中に雨が降り始め、到着した時にも雨が降っていた

生憎の雨だが、小雨程度だったので取り敢えず探索してみることにする

バス停に降り立つと道路を挟んだ向かい側に寒渓教会がある

今日はこちらの牧師さんとお会いしお話を伺う予定になっている

 

が、現在の時刻はまだ11時半過ぎ約束の時間までは4時間以上もあるため、手始めに、事前に調べていた寒渓部落唯一の小学校(寒渓國小)を見に行くことにする

ここはこの地域における蕃童教育所(旧称:寒死人渓蕃童教育所)が設置されていた正にその場所である

こんな山奥の場所にも関わらず、当時は学校のすぐ近くに神社も建設されていたそうだ

 

バス停から小学校までは数百メートル学校へ近づくにつれてだんだん人が増えてきた

小学校の外壁に沿って校門まで食べ物の屋台が立ち並び、子どもから大人まで何やらにぎやかな様子何かイベントをしているようで、マイクで何か話している声が聞こえる


屋台で食べ物を求める人たちを横目に、外国人に対する視線を多少感じながら校門付近へ行くと、きれいに整備された校庭のトラックで運動会が行われていた

これは後に聞いたことだが、この運動会は年一回開催されるお決まりの行事で、近くの部落からも参加者がいる部落対抗型の運動会のようだ

部落ごとに決められた色のキャップ帽に大きく部落の名前が印刷されている
因みに、運動会と言っても子どものものではなく、大人たちが裸足で何か重石のようなものを肩に担ぎ、走り回っている

寒渓國小|年に一度、大人の運動会開催中
寒渓國小|年に一度、大人の運動会開催中


学校の敷地内に入り、近くにいた男性二人に話しかける
台湾原住民の多くはオーストロネシア語族系の民族で、タイヤル族も褐色系の肌に骨太な人が多い印象を持つ


  「 請問一下。你知道日本時代的神社在哪裡? 」
  (ちょっと聞いてもいいですか。日本時代の神社がどこにあるか
   知りませんか。)    
  「 神社? 我不知道。我們不是這邊的人。」
  (神社?わからないね。俺たちはこの辺の人じゃないんだ。)
  「OK。謝謝你。」
  (OK。ありがとうございました。)
 
仕方がないので、もう一人次は女性に声をかけてみた

こちらを振り向くと紫色に白字で「寒渓」と書かれたキャップ帽を被っている
先ほどと同様の質問を投げかけると、神社は学校の裏手にあるから運動会が行われている脇を抜けて、あの奥に行ってごらん、と丁寧に教えてくれた
奥に抜けると学校の裏山へと続く石段を見つけた
 
その石段には等間隔で電灯が設置されているが、ガラスの灯具が割れていて電球が剥き出しになっていたりする
少し登ると途中から枝分かれするように、更に古い石段が右手側に伸びている所々崩れてる部分もあり、あまり管理されていない様子
 
古い石段の脇には倒された形跡がある石灯籠がいくつか残っていて、頂上まで行くと本殿があったであろう跡が見え、本殿に向かって左には1933年(昭和八年)に建てられたという誓いの石碑』が残存している
 
台湾における皇民化運動の初期に寺廟整理※3 などが推し進められる中建てられたこの石碑には、『国語(日本語)常用に努める』、『習俗改善に努める』、『社会奉仕に努める』などと日本語で刻まれている
国語常用が何よりも先に謳われていることからも、日治時代の皇民化運動において日本語の普及がいかに重要視されていたかが窺える
 
元来、キリスト教が普及していたこの地域では日本人退去後、住民たちによって神社が取り壊されたそうだ
 
 ※3『寺廟整理』: 在来宗教の神仏を焼却・破棄し、それに代わる国家神道への信仰を強要するもの
 
旧寒渓神社の境内の残る『誓いの石碑』|國語(日本語)常用や習俗改善に努めるなどと謳う
日治時代の寒渓神社跡地|現在は本殿は残存しておらず、周りには灯篭や石碑が僅かに残っている

寒渓神社の旧境内に残る『誓いの石碑』|國語(日本語)常用や習俗改善に努めるなどと謳っている
寒渓神社の旧境内に残る『誓いの石碑』|國語(日本語)常用や習俗改善に努めるなどと謳っている
 
神社跡地を後にし、先ほど上って来たばかりの階段を下りている時、相変わらずにぎやかな運動会の方向から男性の大きな声が聞こえた 
 

「hayo hashiru!(速く走れ!)」

 
 突然、言葉が際立って耳に飛び込んできた感じがしたこれが宜蘭クレオールと呼ばれている言語か
「hayo(速く/早く)」と言う単語は、諸説あるが鹿児島県、熊本県(旧薩摩・肥後地方)の辺りで使用される方言だそうだが、日治時代に日本から遥々台湾へ移り住んだ人々の中には鹿児島、熊本、福岡など九州地方出身の人も多かったという
寒渓部落に来て早々、宜蘭クレオールに触れることになった

『宜蘭クレオール』を探して(1)